「アカルイヘヤ①」
桜井のりお箸『僕の心のヤバいやつ』Karte.154「僕はどこにいても君を見つける」についてのエッセイの前半です。
こちらは管理人自身によるX(Twitter)ポストのアーカイブ版になります。
※リンクはこの記事の最下段にあります。
ゴールと現在地
呼出音と着信音が重なった時、文化祭編に通底する本望についての問答が市川世界の白黒化とともに発動し、場面は心の迷路の様相を呈する。
「行き止まり!」=ゴールインの福音とともに濃淡(色彩)を回復した市川視点にて、近景の段ボール壁をなめつつ本物の建造物群の遠景から振り向く社会人山田の全身が中景の距離感をもって展開する.
そのコマのみ全開放の窓は遠景へのヌケを確保しながら、昨夜のカーテンを揺らす夜風によって喚起された世界に対する少年の微かな動揺への回答として、笑顔の少女の髪をなびかせるだけの風を迎え入れる。
そして一際(ひときわ)の光線を呼び込むことで行き止まり=ゴール=謎解きの宝物=山田の後光を形成するとともに、振り向きざまの顔へのハイライトによって彼女が光と同化する一瞬をも確保する。
こうして世界の中の宝物/指針である山田へ市川が行き止まる…ぶつかる/クリンチするというのはとても自然な成り行きではある。
しかしその一方で、「行き止まり」というにもかかわらず、直前の市川の「ランウェイだって…」という独白からのモンタージュにより、先んじて空へと飛び立ってしまいそうな山田を市川が抱き止めるようにすら(少なくとも筆者には)見えてしまったのもまた致し方のないことかもしれない。
※runway(英):モデルの歩く花道、滑走路
監督とプロデューサー
何であれ特筆すべきは、アトラクションの裏側から客の反応を窺いつつ、常道ならぬルートの謎解きを仕掛けながらつとめて明るく市川を待つという山田の健気なプロデューサーぶりだろう。
それはあの市川の悲壮な対ゲリラ演出=監督による咄嗟のニセ告白芝居の顛末… 『僕らはウソをついた』(#144)での中学生カップルの常道ならぬ生存戦略を、山田の後見者である諏訪による今回の内幕説明とともに、いよいよ正道なるものとして肯定する。
だからこそ逆に本作は、いきなり諏訪の説明と矛盾するように…また山田本人にも「お忍び」と言わせておきながら、制服のみならず秋虫の鳴く昨夜に限って突然排除したカーディガンをも彼女に着用させることで、主人公たちによる#144の反転再現を大胆にも強行する。
それも名札のみを排除するというかたちをとる。
そうしてこれは抱き付きおよび落涙の主体や構図の反転から 大丈夫サインの転回までをカバーするだろう。
逃走と闘争
そしてあの日々の営みの堆積した仄暗い階段下の小部屋…備品倉庫とは対照的に、今回の明るく空虚な手作りの隙間空間では、忍び逢う制服中学生たちの置かれるかりそめの地位が名札とともに頼りなく剥奪され、市川はその無力さを曝け出すだろう。
また窓の反対側(来た道側)が描かれることのないこの空間とは、『僕は覚悟が足りない』(#122)の時の備品倉庫とは違い、湿った胎内からのカップル誕生を目撃する助産師の如き誰かの助けなど呼んでも詮無い地点……
換言すれば、カップルの生長/存立の段階において 校内の誰を頼みにしたところで連れ立って逃げ戻れない(実際今は別々に引き返すのが良さそうな)行き止まりであって、窓外の秋空の不可測の高み/社会のみが彼らの各々そして共に挑むべき行く手として示されるばかりなのだ。(続)
参考:管理人による元のX(Twitter)ポスト
※本記事とは文章などの編集が多少異なりますが基本的な内容は同一です。